何年かして、ぼくは札幌の自室にて一人でコーヒーをいれていた。
冬の札幌は雪が一日中降ったかと思うと次の日は信じられないくらい太陽が出ることがよくあって、窓から見える景色一面、昨日降った真っ白の雪が目が覚めるほど反射していた。
コーヒーのメタルフィルターから立ち上る湯気を眺める。コーヒーは何年も自分で入れてきたけど、カフェのようにいかにも美味しそうな香りというわけではなく、台所の匂いや生活の匂いと混ざって、特に飾り気のない香りがする。僕のコーヒーの淹れ方が何かまちがっているのかなと思いながら、FlatsoundのSleepというアルバムを聴きながらコーヒーがはいるまでの時間をすごす。
一人で、太陽の光やコーヒーの香りや音楽に身を預けるのは本当に久しぶりだ。
日本に帰ってきて、会社に入って、恋人と出会って、何回か引っ越して、結婚して、会社をやめて、目まぐるしく社会に溶け込もうとする中で、気づかないうちに自分の内面の世界との距離がひろがっていたようだ。
役に立つ情報、分析、知識の量。こういったものには共通の質感があると思う。人間の物質的な面というか、人間が人間同士のかかわりを上手に作っていくためにあとから作り出されたものたちという質感がある。
こうしたものは、僕を遠いところまで連れて行ってくれる。生物として僕という個体が持っている力だけでは到底及ばない広くて遠い世界を広げてくれる。
でも、人間には別の側面があると思う。
いのちを持って、生物の身体に入っている僕。耳や目や鼻や舌や皮膚で、味わう世界。ここには分析が入ってくる余地はなくて、わからなくても感じるもの、むしろ、わかろうとせずに感じることで到達できる世界がある。遠いところまにいくのではなく、深く、深く、潜っていくところ。
深い内面の世界。未知の世界、深いということは光があまり届かないのかもしれない。街に対する森というか、啓蒙思想に対するアミニズムというか。
ぼくはしばらく街の開拓に力を入れてきたような気がする。仕事ができるようになった。知識やスキルの量が増えて、自分の力だけで生きていく分のお金を稼げるようになった。広く人間関係もできた。
でも、やっぱり音楽がやりたい。音楽をやるには、少し深く入り込む時間が必要だと気づいた。
手に入れたものを抱えながら音楽ができるのか。
不幸せじゃなくても音楽ができるのか。
年齢は、お金は、住環境は?音楽を許すのか?
また考え始めたいと思います。
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